2014年03月02日
母のこと
皆さん、こんにちは。
3月になりました。本当に早いものですね。
さて、先週のブログ「なぜ走る?」の中で、私の母のことについて少し触れましたが、母のことについては、以前私のプライベートhpの中のエッセイに、「母への思い出」と題して書いたことがありました。それで今日はそのエッセイを、こちらのブログでもご紹介させて頂くことにしました。少々長いですので、お時間のある時にでも、良かったらどうぞ。
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「母への思い出」 (2001/12/09)
私の母は59歳の時、多発性骨髄腫という白血病の一種の病気が発病し、あと2年余の命と医者から宣告されましたが、持ち前の精神力と父の献身的な看病のお陰でそれから約7年入退院を繰り返しながらも生き延び、66歳で亡くなりました。それでも平均寿命が80歳を越える現代では、とても短い人生だったと言えるでしょう。
母はそれこそ菩薩観音様のような愛情豊かな女性で、それは母を知る誰もが認め口にした言葉でした。母の告別式の時には、仕事関係の人達が「私は会社から言われて来たのではありません、専務さん(母は会社の専務を務めていましたのでそう呼ばれていました)には本当に色々とお世話になったので、自分の気持ちで来ました」と言われて沢山の方達が来られました。
母が怒るということはありませんでした。端から見て怒って当然と思われるようなことが起こっても、母は自分の至らなかったところを捜して相手を責めることはありませんでした。もし100%相手に非があるというような時にも、母は相手の人によっぽど事情があったのでしょうと、悲しむだけでした。
母は子育てにおいてもその姿勢は同じでした。とても厳しかった父と対照的に、母はいつも子供達に愛情一本槍の子育てをしてきました。そんな母に私は生涯一度だけ叱られたことがありました。
それは私が小学5年生の頃だったと思います。12月のとてもとても寒い日の事でした。年末の大掃除を家族全員でしていた時、私は庭先で雑巾掛けをしていたのですが、バケツの水で雑巾を絞っていた時、そのあまりの水の冷たさに手がかじかんで、つい泣きべそをかいてしまったのです。
私が泣いていることに気がついたのでしょう。気がつくと目の前に母が立っていました。そして、「どうしたの?」と優しく聞かれました。それで、私は、「水が冷たくて・・・」と泣きながら答えました。すると、母は驚きの表情に変わり、そのあと、なんと私はあの母からビンタをはられたのです。そして母は言いました。「男の子がそれくらいのことで泣いてどうするのね」と。
その時の私は、ほっぺたを叩かれた痛さよりもなによりも、あの怒ったことのない観音様のような母が、怒ったということに驚いていました。その後のことは良く覚えていませんが、それから少ししたあと私が家の中に入ると、台所の奥で母がしゃがみ込み、両手を顔にあてて泣いている後姿が目に入りました。きっと思わず子供に手を挙げてしまった自分が悲しかったのだろうと子供心に思いました。
毎年12月の師走になると、あの時の母の姿を思い出します。

姉たちと母と一緒に(桜島を背にして)
邦子(次姉) 京子(長姉) 私 母
私の母への思い出の一枚の写真です
3月になりました。本当に早いものですね。
さて、先週のブログ「なぜ走る?」の中で、私の母のことについて少し触れましたが、母のことについては、以前私のプライベートhpの中のエッセイに、「母への思い出」と題して書いたことがありました。それで今日はそのエッセイを、こちらのブログでもご紹介させて頂くことにしました。少々長いですので、お時間のある時にでも、良かったらどうぞ。
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「母への思い出」 (2001/12/09)
私の母は59歳の時、多発性骨髄腫という白血病の一種の病気が発病し、あと2年余の命と医者から宣告されましたが、持ち前の精神力と父の献身的な看病のお陰でそれから約7年入退院を繰り返しながらも生き延び、66歳で亡くなりました。それでも平均寿命が80歳を越える現代では、とても短い人生だったと言えるでしょう。
母はそれこそ菩薩観音様のような愛情豊かな女性で、それは母を知る誰もが認め口にした言葉でした。母の告別式の時には、仕事関係の人達が「私は会社から言われて来たのではありません、専務さん(母は会社の専務を務めていましたのでそう呼ばれていました)には本当に色々とお世話になったので、自分の気持ちで来ました」と言われて沢山の方達が来られました。
母が怒るということはありませんでした。端から見て怒って当然と思われるようなことが起こっても、母は自分の至らなかったところを捜して相手を責めることはありませんでした。もし100%相手に非があるというような時にも、母は相手の人によっぽど事情があったのでしょうと、悲しむだけでした。
母は子育てにおいてもその姿勢は同じでした。とても厳しかった父と対照的に、母はいつも子供達に愛情一本槍の子育てをしてきました。そんな母に私は生涯一度だけ叱られたことがありました。
それは私が小学5年生の頃だったと思います。12月のとてもとても寒い日の事でした。年末の大掃除を家族全員でしていた時、私は庭先で雑巾掛けをしていたのですが、バケツの水で雑巾を絞っていた時、そのあまりの水の冷たさに手がかじかんで、つい泣きべそをかいてしまったのです。
私が泣いていることに気がついたのでしょう。気がつくと目の前に母が立っていました。そして、「どうしたの?」と優しく聞かれました。それで、私は、「水が冷たくて・・・」と泣きながら答えました。すると、母は驚きの表情に変わり、そのあと、なんと私はあの母からビンタをはられたのです。そして母は言いました。「男の子がそれくらいのことで泣いてどうするのね」と。
その時の私は、ほっぺたを叩かれた痛さよりもなによりも、あの怒ったことのない観音様のような母が、怒ったということに驚いていました。その後のことは良く覚えていませんが、それから少ししたあと私が家の中に入ると、台所の奥で母がしゃがみ込み、両手を顔にあてて泣いている後姿が目に入りました。きっと思わず子供に手を挙げてしまった自分が悲しかったのだろうと子供心に思いました。
毎年12月の師走になると、あの時の母の姿を思い出します。

姉たちと母と一緒に(桜島を背にして)
邦子(次姉) 京子(長姉) 私 母
私の母への思い出の一枚の写真です
Posted by きのちゃん at 00:01│Comments(0)
│つれづれ日記