2014年03月30日
さくら通り
早いもので、明日で3月も終わり。この前お正月だと思っていたのに、今年も一年の1/4が過ぎました。年齢を重ねれば重ねるほど、月日が過ぎるのが早く感じるのはどうしてでしょう。

さて今年も桜の季節が到来しました。私のスタジオの前は、通称「平成さくら通り」と呼ばれていて道路の両側に桜がずっと植えられていて、この季節になると文字通り桜通りになります
私は四季のうちで春が一番好きです。理由はきっと子供の頃から、春は新しい出発の季節だったので、その記憶がずっと積み重ねられてきたからだと思います。中学校の入学式、高校の入学式、大学の入学式、そして社会人となって上京したときの春。いつも私は期待に胸を膨らませていました。
もっとも、春は別れの季節でもあり、長い人生のウチには大きな挫折の時もありました。けれどそんなことも今となっては懐かしい思い出、貴重な経験の思い出となっています。
私の好きな言葉のひとつ、「人生は楽しい思い出作りの旅」。今年の春も、とても素敵な人生の思い出が、もうひとつ加えられていく予感がしています。
と言うところで、今日はこの辺で。

(スタジオ前の 平成さくら通り)
2014年03月23日
ペパーミント・ブルー / 大滝 詠一
先週のブログの、「いのちの理由 さだまさし」には、たくさんの方に見て頂き、Youtubeの動画がとても良かったというDMも頂きました。ご来場いつもありがとうございます。
今日も先週に引き続いて、私のお気に入りの歌のご紹介で、曲は大滝詠一のペパーミントブルーです。
大滝氏が昨年の12月30日に動脈瘤で、65歳の若さで急逝されたことはご存じの方も多いと思います。私は氏が亡くなる一週間ほど前に、ラジオのFM放送からこのペパーミント・ブルーが流れてきたのを聞き、今度のブログの私のお気に入りの曲で紹介しようと思っていました。それで急逝のニュースを知ったときには、とても驚きました。この曲を聴いたのは本当に久しぶりだっただけに、何となく偶然とは思えなかったからです。
それから3ヶ月近く立ち、昨日「お別れの会」があったというニュースを目にして、今日このブログでご紹介しようという気になりました。
前書きが長くなりました。この曲が収められているアルバム「EACH TIME」について、アマゾンで次のように紹介されています。
大ベストセラー『ロング・バケイション』に続くオリジナル・アルバムとして84年に発表され、
大滝詠一にとって初めてオリコン・チャートで1位に輝いたヒット作。はっぴいえんど時代
から長いことパートナーを組んできた作詞家・松本隆とアルバム全曲をコラボレートした
のは本作が初めてというのはちょっぴり意外。内容的には『ロンバケ』の延長線上といえ
るものだが、サウンド的にはより凝った作りとなっており、そこに松本隆の描くちょっぴり
せつない恋愛模様が重なると、実にロマンティックな9篇のラヴ・ストーリーが完成してし
まうという、その見事な職人芸にはただただ感服するばかりだ。
素敵な動画を見つけました。歌詞も素敵で、私が気に入っているところは、
斜め横の椅子を選ぶのは
この角度からの君が とても綺麗だから…
です。
ではお時間のある時にでも、良かったらどうぞ。
☆大滝 詠一 / ペパーミント・ブルー
http://www.dailymotion.com/video/x19bxws_%E5%A4%A7%E7%80%A7%E8%A9%A0%E4%B8%80-single-vox-%E3%83%9A%E3%83%91%E3%83%BC%E3%83%9F%E3%83%B3%E3%83%88-%E3%83%96%E3%83%AB%E3%83%BC_music
☆歌詞はこちら↓
https://petitlyrics.com/kashi/79320/
2014年03月16日
いのちの理由 さだまさし
今日は久しぶりに、私のお気に入りの曲のご紹介です。
曲は、さだまさしの「いのちの理由」で、昨年のレコード大賞の特別賞を受賞した作品ですが、そのときテレビで初めて聞いて、とても感動しました。この曲は、法然上人800年大遠忌を記念し、浄土宗がさだまさしさんに「法然上人をたたえる歌」の制作を依頼して出来たものだそうです。
浄土宗のホームページに、さだまさしさんがこの曲について、自分でコメントを書かれたものが載っていましたので、一部ご紹介させていただきます。
○さだまさしさんのコメント
制作にあたって、法然上人に関する資料を読みながら、皆さんに分かりやすいように、
自分なりに解釈しました。
素晴らしい方の言葉は、短くて分かりやすくて力強い。なぜ生まれてきたのかという
疑問を法然上人のお考えと組み合わせて自分なりに表現したつもりです。
この曲の実際の制作時間は1ヵ月ほどですが、音楽活動をしてきた35年をかけて
作ったといえるのではないでしょうか。今まで私が経験してきたことが全てこの曲に
入っています。「幸せになるために誰もが生まれてきた」というフレーズは譲れません。
さだまさしさんが、自分の音楽活動の35年をかけて作ったといえる、と自分で言われているだけあって、奥深い素晴らしい曲だと思います。
素敵なYou Tubeの動画を見つけましたので、ご紹介します。春は新しい命の息吹のとき。今の時期にもふさわしい曲だと思います。お時間のある時にでもごゆっくりどうぞ。。
いのちの理由 さだまさし
http://www.youtube.com/watch?v=ZIXN6QItDK8

2014年03月09日
凡事徹底
お天気の良いお昼には、春がもうそこまで来ていることを感じさせるようになりましたが、朝夕はまだまだ冷え込みますね。
さて、今日は最近読み返している、6年ほど前に読んだ本、「凡事徹底」からのご紹介です。
この本の著者はカー用品などの販売「イエローハット」の創業者、鍵山秀三郎氏で、趣旨は「平凡なことを非凡に努めること。微差の積み重ねが絶対差となる!」(著書の帯から引用)というものです。
早速ですが、その中から何カ所か引用させて頂きます。
福沢諭吉先生は、鄙事(ひじ)、つまり普通の人たちが雑事と片づける細々としたこと、例えば、朝起きたら布団をたたむとか雨戸を開けるとか、ちょっと家の前を掃くとか、そういった身辺の雑事に対していつも多能で、器用でなければいけないと教えております。
また、芥川龍之介は、「人生は瑣事に苦しみ、瑣事を楽しまなければいけない」と書いております。同じようなことを期せずして二人の大家が言っているわけです。(中略)
ずいぶん前の日本経済新聞に、夏目漱石が芥川龍之介と久米正雄にあてた手紙のことが出ておりました。この中で、夏目漱石が芥川龍之介に、「世の中は根気の前には頭を下げることを知っています。火花の前には一瞬の記憶しか与えてくれません。だから、牛のよだれのようにもっと根気よくやりなさい」ということをこんこんと書いていたのです。
(鍵山秀三郎氏著 「凡事徹底」p.14~26から引用抜粋)
三カ所引用させて頂きましたが、それぞれ日本の文学史に燦然と名を連ねる大家達が、日常のちょっとしたことを根気強くやり続けることが大切だと言っていることに、私はびっくりしました。
そして、高い目標をかかげることは良いけれど、少しの努力しかしないまま、なかなか夢が叶わないことにサジをなげてしまいそうになったり、一方では、日常の細々したことには、忙しさを理由に構わなかったりしている自分に気づき、恥ずかしく感じました。
まずは、平凡なことをきっちりとやること。そしてそれを徹底的に積み重ねていくこと。これが「非凡」に繋がるということをしっかり自分に言い聞かせながら、日々の仕事をやっていこうと心がけている、今日この頃です。

2014年03月02日
母のこと
3月になりました。本当に早いものですね。
さて、先週のブログ「なぜ走る?」の中で、私の母のことについて少し触れましたが、母のことについては、以前私のプライベートhpの中のエッセイに、「母への思い出」と題して書いたことがありました。それで今日はそのエッセイを、こちらのブログでもご紹介させて頂くことにしました。少々長いですので、お時間のある時にでも、良かったらどうぞ。
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「母への思い出」 (2001/12/09)
私の母は59歳の時、多発性骨髄腫という白血病の一種の病気が発病し、あと2年余の命と医者から宣告されましたが、持ち前の精神力と父の献身的な看病のお陰でそれから約7年入退院を繰り返しながらも生き延び、66歳で亡くなりました。それでも平均寿命が80歳を越える現代では、とても短い人生だったと言えるでしょう。
母はそれこそ菩薩観音様のような愛情豊かな女性で、それは母を知る誰もが認め口にした言葉でした。母の告別式の時には、仕事関係の人達が「私は会社から言われて来たのではありません、専務さん(母は会社の専務を務めていましたのでそう呼ばれていました)には本当に色々とお世話になったので、自分の気持ちで来ました」と言われて沢山の方達が来られました。
母が怒るということはありませんでした。端から見て怒って当然と思われるようなことが起こっても、母は自分の至らなかったところを捜して相手を責めることはありませんでした。もし100%相手に非があるというような時にも、母は相手の人によっぽど事情があったのでしょうと、悲しむだけでした。
母は子育てにおいてもその姿勢は同じでした。とても厳しかった父と対照的に、母はいつも子供達に愛情一本槍の子育てをしてきました。そんな母に私は生涯一度だけ叱られたことがありました。
それは私が小学5年生の頃だったと思います。12月のとてもとても寒い日の事でした。年末の大掃除を家族全員でしていた時、私は庭先で雑巾掛けをしていたのですが、バケツの水で雑巾を絞っていた時、そのあまりの水の冷たさに手がかじかんで、つい泣きべそをかいてしまったのです。
私が泣いていることに気がついたのでしょう。気がつくと目の前に母が立っていました。そして、「どうしたの?」と優しく聞かれました。それで、私は、「水が冷たくて・・・」と泣きながら答えました。すると、母は驚きの表情に変わり、そのあと、なんと私はあの母からビンタをはられたのです。そして母は言いました。「男の子がそれくらいのことで泣いてどうするのね」と。
その時の私は、ほっぺたを叩かれた痛さよりもなによりも、あの怒ったことのない観音様のような母が、怒ったということに驚いていました。その後のことは良く覚えていませんが、それから少ししたあと私が家の中に入ると、台所の奥で母がしゃがみ込み、両手を顔にあてて泣いている後姿が目に入りました。きっと思わず子供に手を挙げてしまった自分が悲しかったのだろうと子供心に思いました。
毎年12月の師走になると、あの時の母の姿を思い出します。

姉たちと母と一緒に(桜島を背にして)
邦子(次姉) 京子(長姉) 私 母
私の母への思い出の一枚の写真です