2013年09月01日
中学3年生の時の作文集から
皆さん、こんにちは。
今日はつれづれ日記です。
先日、最近使っていない古い本箱を整理していたら、はるか昔、私が中学3年生の時の作文集が出てきました。そのときの校内作文大会で入選して、自分の作文が掲載されていたので懐かしく読み返しました。
昭和41年となっていたので、もう45年以上も前の文集ですから、紙が酸化して、文字が薄くなっていたので、このままだと今度見つけた時には、文字が判読できなくなっているかもしれないと思い、読めるうちにパソコンに入力しておこうと思い、ついでにこのブログで皆さんにもご紹介しようと思いつきました。
かなり長いですが、中学生の作文で、それほど中味があるわけではないので、お時間のある時にでも読んで頂けますと、嬉しく思います。
では、どうぞ。
「中体連」
3年2組 きのちゃん
「次、藤園中学校。」
「はい。」
ざわめいていた体育館の中が一瞬静まり、視線がぼくたちに集まった。ついにくるべき時は、きたのだ。そう思うと同時に、ぼくの頭の中に今までの事が、いなずまのように通り抜けた。
今までの事、その小説のような事実は、期末テストの終った次の日、7月8日に始まった。その日は土曜日だった。授業が済むと、体操部のぼくは体育館へ急いだ。中体連が2週間後にひかえているのである。体育館には、先輩のNさんが来ていた。中体連の種目である団体徒手の指導にきたのだという。徒手体操では、チーム・ワークが重視される。一人一人が上手でもバラバラではいけないのである。選手がだいたい集まったので、自信はなかったが、やってみることにし、やり始めた。ぼくたちの演技をだまって見ていたNさんの目の色が、不気味に変わってきた。そして、突然、
「やめろーっ。」と、どなった。そして、「なんか、そんざまは、全然あっとらんじゃなかか、よおし、あしたからびしびしきたえてやるけんね。」と言った。そのときは、あまり気にもかけなかったが、その言葉は、事実となって、ぼくたちにふりかかって来た。
4時から6時半までの猛練習。それは、なみたいていのものではなかった。それも、板の上での前転、後転である。皆、二、三日で足腰の痛みを訴えだした。しかし、彼のきたえかたは、ゆるまなかった。
「こらっ田代、ぬしだけおうとらんぞ。桑原は手の下がりすぎとる。」右手に太い棒をもちどなるその姿は、だれの目にも鬼と映ったに違いない。
中体連もあと3日という日。その日は、ちょうど、午前中授業であった。いつものように練習しているぼくたちに彼は言った。
「今日は運動場でする。」
彼のけんまくに押されてか、皆だまって運動場へ出た。太陽がジリジリと照りつける運動場。皆のせなかも汗にドロがついている。汗が目の中に入って目がかすむ。号令の声もかすれぎみだ。灼熱地獄のようである----- やっとすんだ。
「やりなおせ。」と彼は言った。ぼくは、おどろいた。暑さと疲労のために、皆は疲れている。それをやりなおせとは。ぼくたちは、拒否した。初めて、Nさんの言うことにさからった。ぼくたちは答えず体育館へもどった。彼も、ちょっといいすぎたと思ったのだろう。だまって帰ってきた。体育館へもどってきてここでいいからやれといった。それでぼくたちはやろうとしたが、ひとり3年の内布君が、いなかった。彼の怒りは爆発した。そして、水を飲んでいた彼のうでに、ほうきのえがとんだ。そして言った。
「もう、おれは知らんぞ、かってにしろ。」
その後3年だけ集まって計画をたてた。中体連は三日後の22日である。ぼくは、こう考えた。今の疲れようでは中体連では、たいへんなことになる。あすは、十分休養して前日に、二、三回覚えているか確めるぐらいにやるのだ。この案は、さっそく実行に移された。
「おやっ。」とぼくは思った。中体連の前日、正選手である、ぼくたちのクラスの内布君の席がポツンとあいているのだ。(けがでもしたのだろうか)とっさにそう考えたぼくは職員室に飛んで行き、先生へ彼の欠席の理由をたずねた。しかし、なんの連絡もないとのことだった。事情を話すと、彼のおとうさんの職場に電話をしてくださった。しかし、おとうさんもなにも知らないとのことだった。
その夜、ぼくはどうにでもなれという気持ちであった。藤園体操部は、過去になん度も優勝し、昨年は3位であった。その体操部が欠場するかもしれないのだ。そしてその不名誉な事態が生じた時のキャプテンはぼくなのだ。などと考えているうちに眠ってしまった。
(まだ、5時半にならんのだろうか。)などと考えて、うつらうつらしているぼくを、母が起こしに来た。さっそく飛びおきたぼくは自転車で出発した。集合場所は学校の校庭である。まだうす暗い朝の道を、自転車で行くのは実にさわやかである。もう勝敗なんてどうでもいいような気さえしてくる。校庭につくと、3年の泉君と二、三人が集まっていた。泉君も、ゆうべ眠られず、三時頃学校へ来て待っていたとのことである。
さあ、出発だ。ただ一つ心配なことは、あの内布君が来ていないことだ。長い道のりを経て、やっと帯山中の体育館へ着いた。(もしかしたら、内布君が来ているかも。)という、ひそかな期待も裏切られた。六時半頃であろう。体育館には、まだだれも来ていない。一度、規定問題を流してみたが、ちっとも身がはいらない。皆もやはり不安なのだろう。
そうこうしているうちに、出水中学、白川中学など続々と集まって来た。しかり彼は、来ない。いったいなんのために、あんな練習をしたんだろう。もしこなかったら、どうなるのだろう。まったく神に祈りたいような心境とはこのことをいうのだろう。そのときだ、「あっ、内布君のきたよ。」と一年生が叫んだ。まったく、そのときの皆の喜びようといったらなかった。泉君は顔中をほころばせながらかけよるし、めったに笑わない二年生までが笑った。もっとも、ぼくも相当喜んだのだろう。
「開会いたします。」という係員の先生の声とともに、始まった。団体徒手では規定問題と自由問題があり、規定が先にある。いつのまにか藤園中の番がきていた。結果は、完全に失敗であった。皆、コチンコチンに硬くなっていたのだ。ぼくたちの演技が終わったあとの会場は、冷やかな空気に包まれていた。
「体操も、へたな人がやるとカッコ悪かねえ。」遠慮のない声がぼくの胸に、つきささった。しかし、まだ自由がある。
「ハイ。」ぼくの号令のもとに自由種目の演技は始まった。転回、逆転、バランス、途中でぼくは、のびのびとやれているのに気がついた。会場もしだいにシーンと静まっていた。跳躍、そして深呼吸。ついに演技は終わった。そのとき、ぼくははっきりと聞いた。観衆のわれるような拍手を。規定問題のときのような、お義理の拍手ではない。ぼくはもう勝敗なんかどうでもいいような気分になっていた。
結果が出た。総合、第一位出水、第二位東野、第三位藤園中学校。第三位であった・・・・。
中体連が済んで三日ほど後のことだ。ぼくは帰途についていた。そのとき自転車に乗って走っていくNさんを見た。彼もこちらを向いた。彼はニッコリと笑っていた。ぼくは、はっきりと感じた。もう中体連は済んだのだと・・・・。
(昭和42年12月1日発行 「とうえん 第14集」から)
こうやって読み返してみると、人間というものは、子供の時も今も、全然変わっていないものなのだなぁと、つくづく思います。
私の思い出話におつきあい頂いて、大変ありがとうございました。
